
聖徳太子像(16歳)
本堂内裏側
神野寺縁起
推古天皇6年(598)聖徳太子の開山により始まりました。現在の地名ともなっている鹿野山は、当山の山号であり、太子が当寺を建立する際、野生の鹿が沢山集まった事からインドのお釈迦様の初転法輪の地(鹿野苑)にちなみ、山名を名付け「鹿野山」名称の発祥の寺院であります。
現在では、熊野峰(鹿野山神野寺)・白鳥峰(白鳥神社)・春日峰(春日神社)の三峰を総称して鹿野山といわれており、関東三大修験道『鹿野山、筑波山(茨城)、榛名山(群馬)』の一山でもある名山でご祈祷(お祓い・お参り)の霊山です。
天安元年(857)には、慈覚大師が再興しています。平安時代から鎌倉時代にかけては天台の道場として栄えました。永正年間(1504)には高野山から弘範上人が来山して、真言密教の法灯を立てました。弘範上人は、真里谷城主(木更津市真里谷)真里谷信勝の協力を得て荒廃していた神野寺を復興しています。さらに、天文年間(1532~1555)には里見義尭が神野寺を帰依し再興をはかっています。
天正18年(1590)徳川家康が関東を領有すると、同年7月に神野寺に朱印の禁制を与えました。それによると、軍勢などが神野寺に対して乱暴することや放火などを厳禁しています。天正19年(1591)に家康は寺領並びに格式十万石の大名格を寄進しています。
また、この年家康は家臣である佐貫城主内藤家長(富津市佐貫)に伽藍や僧坊を造営させました。元和7年(1621)12月坊中から出火して堂宇を焼失しました。その後、第7世源瑜が中興し新義真言宗の法灯を伝えました。また、第14世利珊も堂宇や僧坊の復興を計画し、宝永5年(1708)に再建に成功しました。この時、松平勝隆は用材を寄進して利珊に協力しました。